【アモリ通信186:西郷隆盛 vs 大久保利通】  20181114


福島清隆 さん


こんにちは。


キャッシュフローコーチ &
   リスクマネージャーの福島清隆です。
本日のテーマは
   「西郷隆盛 vs 大久保利通」です。

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  人物比較でわかる日本史  小和田哲男
  「2人の明暗を分けたものは何か」
   P28~P33       角川書店 \1900+税


  早わかり 幕末維新
  「意見の違いで大きく割れる明治政府」
   P216~    日本実業出版社
                \1500+税 
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NHKの大河ドラマ「西郷どん」はなかなかの
視聴率ではないかと思います。

あくまでも「ドラマ」ですから、「史実」
ましてや「現実」とは異なるにせよ、基本は
ビジネスですから「視聴率」が低くては成り立ちま
せん (笑)


そういう話はともかくとして、幼少時代から、同じ
環境で育ち、助け合って立身出世を遂げていったの
であろう、西郷と大久保は、どこで仲たがいして、
敵対する関係になってしまったのか。

幕末維新の歴史に詳しい人なら、それくらいのこと
は「常識」レベルなのかもしれません。

また、アモリ通信の範疇であまり詳しく分析するの
も、少しハードルが高いことです。


私は鹿児島市生まれで、毎日をそこで過ごした人間
です。  (高校+1年まで)

だからといって、自分が育った地区から直線距離に
して多分500mもない地区で、西郷や大久保やその他
の人物が育った(らしい)事実を特にどうこう感じ
ることもありません。

しかし、アモリ通信の継続で、あまりに知らないこ
とが多過ぎることを自覚する為、郷里の偉人の西郷
と大久保の関係性の変化くらい少しは勉強しとけよ
と、自分に言い聞かせて今回のテーマにしました。

ちなみに、鹿児島でも?、西郷隆盛は人気のある人
物ですが、大久保利通を褒めているような人はあま
り記憶に多くはありません。


上記の2書から、ポイント他を幾つか抜き出して纏
めてみます。

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西郷隆盛(1827~1877)

薩摩藩小姓組西郷吉兵衛・マサの長男として生まれ
る。藩主島津斉彬の病没後、僧月照と投身自殺を図
ったが蘇生し、奄美大島に流された。

慶応2(1866)年、坂本竜馬らの仲介によって薩長
同盟を結び、王政復古のクーデターで旧幕府側を挑
発、鳥羽・伏見の戦いでそれを撃退する。
続く江戸城無血開城にも成功した。

のち、参議となったが、征韓論争で下野し、明治10
(1877)年の西南戦争に敗れ、自刃した。


大久保利通(1830~1878)

薩摩藩士大久保次右衛門利世の長男として生まれる
。はじめは公武合体路線だったが、やがて討幕・王
政復古の方向に転じている。

明治維新は、藩政奉還・廃藩置県を断行し、また、
一連の士族反乱を鎮圧し、天皇制の強化を図った。

欧米を歴訪後、殖産興業に力を入れ、集権体制の強
化に努めたが、西郷隆盛とは対立した。

明治11(1878)年に西洋化と専制に反対する士族らに
暗殺された。

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今回のテーマに基づき、西郷と大久保が敵対するよ
うになった原因を中心に解説を抜き出します。


西郷隆盛は、
明治4(1871)年に明治政府の参議に就任し、岩倉具
視の使節団が欧米に派遣されたときには(大久保利
通は使節団の一員)筆頭参議の立場で、いわゆる留
守政府を総理しており、徴兵制度・地租改正など、
明治政府の柱となるような事業を推進した。

岩倉使節団が帰国したあと、明治6(1873)年10月に
は「征韓論」をめぐって大久保利通と真っ向から
対立し、ついに、隆盛をはじめとして、板垣退助・
後藤象二郎らが下野するという事態になった。


征韓論を唱えた隆盛は、大久保利通や岩倉具視に反
対され、政府を辞めて鹿児島に帰り、7年(1874)
に鹿児島に私学校という新しい士族教育機関を設立
した。

これは隆盛を党首とする一種の政治結社の趣があり
鹿児島県政を掌握し、明治政府に対抗し始めた。

そのころ、警察権力を握っていたのが大久保利通で
このような状態を許しておくことはできないと判断
し、隆盛の暗殺計画を流布させるなどの挑発をして
いる。

これに反発して、新政府に不満をもつ士族たちが決
起したのが反政府暴動の「西南戦争」の発端であっ
た。

隆盛は、明治10(1877)年に士族たちにおされて暴動
の先頭に立つことになった。

その後、9月24日、鹿児島の城山で自刃した。 



大久保利通が急速に台頭したのは、
活躍の舞台を京都に移し、公家の岩倉具視と結んで
からである。

利通の生き方を大きく変えたのが、明治4(1871)年
~明治6(1873)年の岩倉使節団の副使として欧米を
歴訪し、欧米列強の政治・諸制度などを学び、殖産
興業を政府主導で推進することの必要性を痛感して
帰国したことであった。



◎親友だった2人がたもとを分かったのは、いった
いなぜだったのだろうか

第一の要因は「征韓論争」である。

留守政府の総理であった隆盛は、日朝間の開国通商
問題を解決するために、自らが朝鮮に渡りたいと主
張し、8月の閣議で了承されたが、岩倉使節団の帰
国まで発令は延ばされた。


同年10月、岩倉使節団一行が帰国し、閣議が再開さ
れ、利通が反対を唱え、岩倉具視・木戸孝允・伊藤
博文が同調し、隆盛の使節派遣は中止になった。


利通の考えは「対外的には無用な摩擦は避けたほう
がよい」というものであった。

西郷と大久保は対外政策についての考え方が根本的
なところで異なっていた。

大久保は欧化主義を前面に押し出した。

西郷は朝鮮といった国外の植民地化による国力の増
強を主張し、欧化主義・西洋崇拝的な風潮には批判
的であった。


第二の要因は「中央集権に対する考え方の違い」で
あった。

隆盛はどちらかといえば、薩摩藩の影響を引きずっ
ていた。

一方、大久保は早くから朝廷公家との接触があった
ため、藩意識は希薄で中央集権にのっとった絶対的
な天皇中心の国家づくりをめざしていた。


討幕という目標は同じであっても、そのあとに描い
たビジョンが、隆盛と利通とでは、大きく食い違っ
てしまったのである。

 (ここまで
  「人物比較でわかる日本史 小和田哲男」
              から一部抜粋)

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(ここからは「早わかり 幕末維新」)


◎「意見の違いで大きく割れる明治政府」

・西郷隆盛を中心とする留守政府は、
 地租改正、学制の制定、太陽暦の採用、徴兵
 令の制定など、近代化の地固めとなる改革を
 断行した。

・これは、外遊組が「自分たちが帰国するまで
 国内の改革は控えること」「人事は変更しな
 い事」という取り決めを反故にしていた。

・明治6年5月下旬:大久保利通が洋行から帰国。
     7月下旬:木戸孝允帰国。
     9月13日:正使の岩倉具視ら遣外使節
         の全員が帰国
 しかし、政府内に彼らの居場所はなかった。

・主導権争いで政府分裂!

・「征韓論」の本質は、征韓を実施するか否か
 よりも、外遊組と留守組の主導権争いだった。

・岩倉具視は入念な事前工作により、使節派遣
 中止を天皇に上奏し、裁可を得ることに成功。  

・その日のうちに、西郷は辞表を提出し、翌日
 には、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平も辞表
 を提出。

・征韓論の賛成派の辞表が受理されることにより
 征韓論争は反対派の勝利のもと、終幕を迎えた。

・このころの日本は、天皇の命令こそがすべてに
 優先する。「玉」を握るサイドは、政争を優位
 に進めることができた。

・西郷も幕末維新の動乱のときは、それを知って
 いた政治家の一人だったが、「明治六年の政変」
 では、反対派のほうが効果的に使用して、政争の
 勝者となった。


◎ 大久保が就任した内務卿の強大な職責

・征韓論争に勝利した大久保は明治6年(1873)
 内務卿に就任した。

・内務卿は、平成の再編以前における省庁と比較す
 ると、通産省、自治省、運輸省、建設省、郵政省
 の権限を統轄する巨大組織だった。

・しかも、内務省は、全国の警察機構を直轄してお
 り、大久保は、反政府活動を事前に弾圧する力を
 持っていた。

・形式的には太政大臣の三条実美(さねとみ)と
 右大臣の岩倉具視が上位であったが、実質的に
 大久保利通が明治政府の首相格として独裁的な
 権力を手中におさめている。

・盟友西郷との決別の代償として、国家指導者の
 地位にのぼりつめたと言える。


◎ 大久保を支えた2人の子分

・大蔵卿の大隈重信と、工部卿の伊藤博文は、大
 久保の両腕であった。
 大久保の元には藩閥を越えて優秀な指導者や実
 務官僚が集まっていた。

・大久保は西郷との対立により、薩摩藩出身者の
 多くから嫌われた。

 一方、大久保の政治家としての辣腕に多くの者
 が魅了されたことから、大久保は官僚集団のト
 ップとして君臨できたともいえる。

・大久保は「後進国日本が西洋列強に追いつくた
 めには、独裁的な権力者が富国強兵を推進する
 しかない」と信じていた。

・大久保の力は、プロシアのビスマルクの地位に
 近づきつつあった。
 (ちなみに、大久保の長い顎鬚はビスマルクを
  真似したものといわれている)

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もう少し転載してもいい内容がありますが、この
位にしておきます。


が、参考までにもう少し・・・・・

◎ 明治政府初の外征は成功か、失敗か?

・(前略)
・とはいえ、西郷従道が独断で出兵を命じたこと
 は、軍隊における命令系統からの逸脱であり、
 厳罰に値する行為であった。

 しかし、大久保は従道の兄・隆盛との関係をこ
 れ以上こじらせたくないという政治的判断から
 不問に付している。

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幕末の西郷、維新の大久保。
ということではないかと私は感じました。

維新になってしまうと、西郷の考え方は時代に合
わなくなってしまったのかもしれません。

徳川幕府が樹立される前と後で、求められる人材
も変わっていったのと同じことではないでしょう
か。

大久保利通が鹿児島では人気がない理由が
(これまでこの時期の歴史を本気で学んでいなか
った・・・という言い訳も込めて・・・汗)よく
理解できました。

しかし、
「後進国日本が西洋列強に追いつくためには、
 独裁的な権力者が富国強兵を推進するしかない」
と信じていた。

というのは正にその通りというか、やむを得ないの
ではないかと私は思います。

もし西郷が大久保との政争に勝っていたら、日本の
歴史は変わっていた可能性があり、近代化は大幅に
遅れていたのかもしれないと、そんな気もします。

西南戦争は負ける運命にしかなかった戦争だったの
でしょう。

歴史にタラ、レバは無意味ですが、西郷隆盛の偉
大さと限界も分かったような気がしました。

そして、大久保のようなタイプはなかなか庶民の
人気を獲得するのは難しいのでしょうが、維新の
状況下、現実の政治や経済を動かしていく上では
欠かせない人物であったに違いないと思います。



今回のこの内容は「常識」の範疇でしょうか。



福島さんは明治に入り西郷と大久保が仲た
がいしてしまった理由、背景についてどのように
思われるでしょうか。




ご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。




最後まで読んでいただきありがとうございます。




福島さんの幸運な日々を祈念します。




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