【アモリ通信424】 酒井忠次

◎◎さん(^^♪

こんにちは。

SILアカデミー 1on1 オンライン顧問
ジョガーFの福島清隆です。【専門は物流です】

本日のテーマは「酒井忠次」です。


  英雄に学ぶ失敗と成功の本質
  徳川家康の長男を切腹に追い込んだ
  四天王筆頭・酒井忠次

  NIKKEI BUSINESS 2023.06.05
     P060~P063


今年の大河ドラマ「徳川家康」にも嵌まっており
ます。最初は従来の家康像とのイメージの違い
に戸惑いましたが、これもまた脚本家、古沢良太
の描く世界が見事だなと思うようになりました。
大森南朋が演じる酒井忠次もなかなかのものだと
思い今回、取り上げることにしました。

ただ先日の大河ドラマでは「瀬名」と「信康」が
中心に描かれてあり、大森南朋演じる酒井忠次
については、やや肩透かしでした。
まぁ~大河ドラマはあくまでも「ドラマ」ですか
ら史実との違い云々を言う人もいますが、それは
それ、これはこれで各自判断すればいいと思い
ます。


      (前略)
◎ 能力のある人間にはツノがある

 徳川家臣団はほぼ全員が、信康を殺した張本人
は忠次だと思っていました。しかし、家康が数年
後には天下をうかがうかというほど力を持ったこ
ろにも、忠次はナンバー2でした。普通では考え
られないことです。
 本多正信の回でも述べましたが、家康のこのよ
うな奇妙極まりない行動は、彼が自らを凡庸な
人間だと認め、戦国の世で己が生き残るためには
、問題はあっても優秀な、賢い人間を身近におか
なければならないと考えた結果だった、と思いま
す。
 忠次は、家康が羽柴(のち豊臣)秀吉と戦
った天正12(1584)年の小牧・長久手の戦い
では、戦端を開いた羽黒(はぐろ)の戦いで奇襲
をかけ、敵将を敗走させるなど、多くの武功を挙
げています。
 家康は、「能力のある人間には、どこかツノが
あるものだ。そのツノを認めて寛容にならなけれ
ば生き残れない」と自覚していたのです。
 忠次は、信康を失うきっかけをつくってしまい
ましたが、それ以上に徳川家の行く末を考えてく
れている、と家康は思っていたのでしょう。自分
は忠次にはなれないし、忠次の利発さがなければ
徳川家はもたない、と家康は判断していたのです
 酒井忠次は関ケ原の戦いの4年前、慶長元年
(1596)に70歳で亡くなっています。亡くなる
8年前の天正16年(1588)、62歳のとき長男・
家次に家督を譲って隠居しました。
 忠次は家康が三河を平定したときから、三河
国(みかわのくに)吉田城の城代を任されてい
ました。その吉城を譲られた家次は、天正18年
(1590)家康の関東移封にともなって下総国
臼井(しもうさのくに・うすい)藩3万石を与え
られます。ですがこのとき、ほかの四天王の
井伊直正(なおまさ)、本多忠勝(ただかつ)、
榊原康政(やすまさ)らは10万石前後の領地を
与えられていました。
 さて、家康は忠次の意趣返し(いしゅ<恨み
>がえし)を家次にしたのでしょうか。
 さすがの忠次も、この家次に対する扱いに不満
に思ったのか、家康に隠居の挨拶に出向き、こん
なやりとりをしています。忠次は「これからは、
私同様に長男を宜しくお願いします」と頭を下げ
ました。家康は「おまえでも、長男がかわいいか
」と応じました。ここで考えてほしいのは、家康
がどういう顔をして、この言葉を口にしたのか、
です。
 このとき家康が、「あのときは信康を見捨てた
くせに」と腹に一物を持ったような、憎々しげな
顔で、あるいは無理した笑顔でこの一言を言い放
ったとすれば、忠次の、主家の存続を何より願う
という気持ちが、消えてしまったのではないでし
ょうか。
 
◎ 絶望の中でも人を許す力

 筆者は、家康は満面の笑みを浮かべて、この一
言がいえたのだと思うのです。家康の凄さはまさに
ここに尽きます。
 信長型や秀吉型のリーダーは、いつの時代、
どこの国にもいます。
 ところが家康型のリーダーは見あたりません。
家康はタヌキおやじといわれ、待ちに徹した凡庸
なイメージがあります。信長の大局観、先を見通
す先見性を100とすれば、秀吉は信長のまねを
した10程度です。対して家康は、残念ながらゼロ
です。
 信長は天下布武まで数えても1代、秀吉は
天下を取って2代で終わりました。大局観ゼロの
家康は265年の泰平の世を築いて、15人の将軍を
出しています。この差は何なのか。大局観、
先見性という合理的なリーダーシップを超える
”何か”がないと説明できません。
 家康だけが持っていて、信長、秀吉になかった
ものは何でしょうか。
 寛容さではないか、それも絶望の中における
ものではないか、と筆者には思えてなりません。
家康の父・広忠も祖父・清康も、家臣に殺され
ています。普通なら間違いなく人間不信になる
はずです。ところが家康は、絶望の中にあっても
許せない人間を許せる寛容さを持っていました。
 経営者の皆さんなら分かると思いますが、
通常、自分より能力の高い人間をナンバー2
としては使えません。必ず足をすくわれますから
 ですが、軒下を貸して母屋を取られてもいい、
と覚悟して、すべてを許し、活躍に期待すれば
それに応えてくれる人間=好漢(こうかん)も
歴史上にはいるのです。三国志の劉備玄徳に
とっての諸葛孔明のような人間がーーー
 家康は、優秀な人材に仕事を任せることが
出来た人物でした。自分に自信がなかったこと
もそうですが、生き残ることに必死だからできた
のしょう。同盟を結んだ信長についていくのも、
大変なことでした。そのためには酒井忠次や
本多正信といった人材が、必要不可欠だった
のです。
 秀吉が死んでから、家康は天下取りに動き出し
ました。
 家康は自らの感情を押し殺し、すべての人材を
組織の中にうまく取り込み、活用します。
まさに、酒井忠次や本多正信のような人材も。
 白井藩3万石の城主となった酒井忠次の
嫡男・家次は、慶長9年(1604)に上野国
(こうずけのくに)高崎藩5万石に移封され
さらに元和2年(1616)には、大坂の陣の
功によって、越後国(えちごのくに)高田藩
に転封、10万石に加増されました。
さらにいえば、忠次の孫・酒井忠勝は出羽
の国庄内藩にて14万石の大名となっています。


 (前略)があるとはいえ、後半も少し長い
ので途中を一部カットしようかと思いましたが、
全て転載した方がいい内容だと判断しました。

 私的には・・・
『経営者の皆さんなら分かると思いますが、
通常、自分より能力の高い人間をナンバー2
としては使えません。必ず足をすくわれますから
・・・・・・・・
家康は、優秀な人材に仕事を任せることが
出来た人物でした。自分に自信がなかったこと
もそうですが、生き残ることに必死だからできた
のしょう。』

この辺が家康像の最も注目すべき点ではない
かと大河ドラマを見ながらも私は感じてます。

 ま、しかし、繰り返しますが裏切り、下剋上
が当たり前の時代です。信頼した家臣の前で
はいつも無防備だったのでしょうか。
 筆者の解説も「小説風で想像」の部分が
少なくありません。真実は闇でしょう。

ト、イツモ、イワナキャ、イイコト ヲ イッテ
シマイマシタ (💦💦💦)

◎◎さんは、酒井忠次という人物が
徳川家臣でナンバー2でい続けられた理由が
何か他にもあると思われるでしょうか?

(酒井家のルーツは松平家と同一とされており
忠次は、徳川家康にとって、義理の叔父に当た
ります。)という記載が記事の最初にあります。

ご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

◎◎さんの幸運な日々を祈念します。

 
 
 

お問い合わせ・ご相談

ご不明な点などございましたら、お気軽にお問い合わせください。

SILマネジメント株式会社

お問い合わせ・ご相談はこちら